日本の歴史

日本のチョコレート事始め(近代日本におけるチョコレートのひろがり)

日本のチョコレート事始め

明治時代に入ると、チョコレートは徐々に普及していきました。

明治6(1873)年 岩倉使節団、パリ郊外のチョコレート工場を視察

明治新政府は明治4(1871)年から6年にかけて、特命全権大使に岩倉具視、副使に木戸孝允・伊藤博文・大久保利通とする使節団を米欧に派遣しました。フランスでは1月21日にパリ郊外のセーヌ川北岸にあるチョコレート工場を訪れています。チョコレートの製法やカカオ産地の情報なども調べており、『特命全権大使米欧回覧実記』に詳述されています。これが近代日本へのはじめてのチョコレートの紹介です。

また、同年6月にはウイーン万国博覧会を視察し、佛國出展の中に3社からのチョコレート出品も記述されています。

明治6(1873)年、築地の外人居留地に西洋菓子の店

この頃、同地(現在の東京都中央区明石町一帯)には清国人やフランス人の店を含めて数軒の店舗がありましたが、その中に西洋料理・菓子の店として文明堂の名があります。しかし、チョコレートを扱っていたかはわかりません。

明治11(1878)年 『郵便報知新聞』に、チョコレート新製の記事や広告

12月11日付紙の「府下雑報」欄に、

“菓子舗若松町の風月堂にては曾て西洋菓子を製出し江湖より賞美せられ
しより一層勉励して猶此度ショコラートを新製せるが一種雅味なりと是も
大評判”

との記事を載せています。

11月25日付け、“佛國博覧会畧報”欄では各国出展品にチョコレートのあることを報じています。

同紙は、両国若松町(現東京都中央区東日本橋)菓子舗風月堂米津松造の名前にて、12月25日に“新製猪口令糖”の絵入り広告、6月28日、7月5日、同16日には“氷菓子アイスクリーム チョコラ入”の広告も出しています。

明治11(1878)年6月20日付『かなよみ』(『假名読新聞』が改題)に両国若松町 風月堂の広告に“氷菓子アイスキリン 金五十銭より調製仕候 ○ミルク入り○チョコラ入り○カーヒイ入り”が掲載されています。同じ広告は、6月26、29日紙面にも出ています。

チョコレート・コーヒーが新しい味として登場してきた証しです。

『商人名家東京買物独案内』に西洋菓子の店

明治廿三年七月刊行の同書には西洋菓子の店として、“皇国西洋御菓子所米津本廛・日本橋區若松町風月堂米津松造、分廛・京橋區南鍋町風月堂米津恒次朗のほか、支廛・神田區淡路町風月堂穂積峰三郎、横濱市本町風月堂原田千太郎、麻布區飯倉風月堂七澤康太郎”が紹介されており、これらの店でもチョコレートを商っていた可能性があります。

同じころに、木挽町精養軒、新橋壺屋は特製販売品を持ち、また、輸入品常時取扱い店としては、銀座亀屋、明治屋、函館屋、本郷青木堂などがあったと伝わります。

文明開化が進むにつれチョコレートの製造(輸入原料チョコからの加工)・販売に参入する店が増えてきます。これまで高価で、味も一般庶民になじみがなく、居留外国人や海外から帰った人たちが楽しんでいたチョコレートが、すこしずつ身近なものになって行きます。

輸入通関統計にチョコレートが記載

輸入統計に「チョコレート」という項目が分類されるのは明治40(1907)年からで、明治38年まで遡って数字が掲出されています。

明治38年の輸入量は51,892斤(約31,135キロ)でした。